「春香!腕が遅れてるわよ!」 「はいっ!」 美希がプロデューサーに連れられて戻ってきた日の夜遅く、二人でレッスン。 春香のダンスとボーカルがどうしても噛み合わない。どちらかに意識を傾ければ、どちらかが必ずずれる。 春香もそのあたりは分かっていて、直接私に頼んできた。千早ちゃんに教えて欲しい。 もしも明日からのレッスンで、美希と比較されるようなことがあれば、彼女の立つ瀬がない。 「なんだ、お前たちまだレッスンしてたのか。そろそろ帰らなくていいのか?結構遅いぞ?」 扉から顔を覗かせるようにして、プロデューサーが声をかけてくる。すっかり忘れていたが、この部屋の鍵を持っているのはプロデューサーだったかしら。 「というか、春香。お前また電車無くなってるんじゃないのか?」 「えっ!?あぁ〜、もうこんな時間!?どうしよう、千早ちゃん、電車もう無くなっちゃってるよ〜!」 思わずプロデューサーの方を見る。―――どうしましょうか?すまない、千早。そんなアイコンタクトを交わす。 「はぁ・・・。なら、また私の家に泊まる?」 「ほんと!?ありがと、千早ちゃん!」 目を輝かせて春香が言う。全く、春香は。 「春香も気をつけるようにな。それと悪いな、千早。春香の親御さんには俺の方からまた電話しておくから」 「お願いします、プロデューサー。それと春香、気づかなくてごめんなさい、私が気づくべきだったわ。」 「えっ!?い、いいよ千早ちゃん。それに私から頼んだことだし!」 「でも、私の方が余裕があったし…」 「そこまで。ふたりとも、早く帰り支度をしろ。それが終わったら、また駅まで送っていくよ。春香には切符も渡さないといけないしな」 「あう・・・。すみません、プロデューサーさん…」 「まぁレッスンに身が入りすぎたってことで今回は多目に見よう。ただ次からは気をつけろよ。  あまり帰るのが遅くなると、親御さんも心配するしな。」 「はーい・・・」 夜道を春香と2人で歩く。プロデューサーは随分と心配してくれていたが、この辺りは治安もいい。特に不審者の話も聞かない。 「ねえ、千早ちゃん。どうして私遅れちゃうのかなぁ?」 「そうね、乱暴に言ってしまえば、体力が無いからだと思うわ。歌いながら踊るのって、かなりハードだし。  そうしながら、両方に意識を行き渡らせるのにはかなり体力と集中力が要るわね…」 「千早ちゃんは、平気なの?」 「前よりは、というくらいかしら。色々先輩のライブ映像を見たりしていると、どれだけ歌って踊っても笑顔を崩さないの。  そのタフさ加減に驚かされるわ」 鋼のような精神力、というよりも、ひたすら燃え続ける太陽のようだ。ステージという限られた空間の上で、無限に輝き続ける。 「成程…。私もランニングとか始めようかなぁ…」 「それはいいと思うけれど…時間あるの?」 「そうだよね…朝はちょっと厳しいし、夜も厳しいかも…。あ、そうだ!ジムでトレーニングの時間を入れてもらったら、どうかな?  レッスンの一環、みたいな感じで」 「どうかしら…。理にかなっているとは思うけれど、少なくとも今は無理ね。ライブに向けて、基礎を鍛えている時間はないわ」 「ですよね…あはははは…」 と、スーパーが見えてきた。そろそろ遅い時間だが、ここだけはまるで昼間のように明るい。 人工的で、無機質な白色灯。触ると火傷してしまいそうだ。暗い中を歩いてきた目が少し痛んでいた。 「ん〜…お夜食だし、あんまりたくさんは食べられないし…となると、やっぱり前と同じパスタがいいかなぁ…。  千早ちゃんは何か食べたいものある?」 誰かと食料品の買い出しをするという、今のシチュエーションに戸惑いを覚える。ああ、春香が話しかけていた。反射的に春香が言っていたことを繰り返す。 「えっ?あ、あぁ、食べたいものね。そうね…あんまりたくさんは食べられないし、こないだと同じパスタでいいわ」 しまった。これではぼーっとしていたのが丸わかりだ。 「そっか、じゃあそうしよっか。また一緒につくろうね?」 「ええ、勿論よ」 誰かと夕食を共にする。春香と一緒ということに、少しだけ心が救われた。 * * * * * * * * 千早ちゃんの家に来るのはこれで2度目。正直、引越しのダンボールがいくつも廊下に置きっぱなしなのは、落ち着かない。 リビングに入る。これも2度目、だけど同じように落ち着かない。生活感がなさすぎる、冷え冷えした部屋。 私なら耐えられない。無性にこの部屋を飾り立てたくなる。出来ればあったかい色で。 「春香?どうしたの、ぼーっとして」 「あ、あぁ、ごめんね。一人暮らしの人の部屋って初めてだから」 「ふふ、2回目でしょう?疲れてるのかしら、春香」 「そ、そんなことないよ。っと、そうだ、ご飯が先?それともシャワーにする?」 「そうね、シャワーからにしようかしら。春香も汗を結構かいていたし、先にいいわよ」 「え、そんな、千早ちゃんより先に使わせてもらうのは悪いし、いいよ、私後で」 「私は夜食の支度を先に始めておくから。どうぞ先に使って」 「う、うん…。ありがとう、それなら先に使わせてもらうね」 がちゃり。浴室に入ると、見慣れないボトルが並ぶ。大小様々、色とりどり。アイドルとしての千早ちゃんを守る、大切な道具達。 リビングや廊下よりもよっぽど賑やかな光景に、ついほっとする。千早ちゃんの生活の痕跡がここに、なんていったら大げさだろうか。 シャワーを浴びながら、つい色々な思いに耽る。 千早ちゃんは一人で寂しくないだろうか。一人で食べるコンビニの食事は、お帰りなさいを言ってくれる人がいないのは、シンと静まり返った部屋で一人過ごす夜は。 ――――そして、私はどこまで踏み込むことを許されているだろうか。 765プロで一番千早ちゃんと仲がいいことは、きっと他のみんなも認めてくれるだろう。でも、私が千早ちゃんの事情に踏み込むのは? 千早ちゃんのご両親は離婚してて、前に泊まったとき、千早ちゃんは不思議な目で弟さんの写った写真立てを見つめていた。 私はその領域に立ち入っていいのだろうか。私に何が出来るだろうか。そもそも、この気持ちはただのおせっかいで、もしかすると迷惑じゃ? ――――いけない。これ以上考えると動けない。千早ちゃんのために、何かしてあげたい。その思いだけは、間違ってない。 うん。考えていてもよくない。私は理詰めで考えるのが苦手だ。だったら、きっと感情の赴くままに動いた方がいい。 よし。一度決めてしまえば、あとは動くだけ。覚悟を決める。それなら私の得意分野だ。 シャワーから熱湯が流れる。汗と一緒に、後ろ向きな思いも流れて行ってしまえばいいと思った。 そうして、千早ちゃんとご飯を作って、一緒に食べて、勉強を見てもらって。前と同じ過ごし方。違ったのは、千早ちゃんの料理の腕。前よりもちょっと手馴れてる。 千早ちゃんの横顔を眺めていたら寝る時間になった。もともと帰りが遅かったし、その時は思っていた以上にすぐ来た。 「そろそろ寝ましょう、春香。といっても、ベッドは一つしかないし・・・どうしたものかしら」 「ねぇ、千早ちゃん。それなら一緒のベッドで寝ない?ほら、最近季節の変わり目で寒くなってきてるし。  ライブ前のこの時期に風邪なんて引いちゃったらまずいよね?」 「え、えぇ。それはそうだけど。でも、春香は嫌じゃないの?」 「ぜーんぜん、私は構いません。ふふっ、ちょっと楽しみなくらいなんだよ」 寝室に移動すると、リビングとはまた違った匂いがした。千早ちゃんの香りに、少しどきどきする。 「そ、その…もしも寝相が悪かったりしたらごめんなさいね。一応、今までそんなことは無かったんだけれど…」 「大丈夫。むしろ私の方が寝相悪いかも、だよ」 「ふふ、それもそうかしらね」 「え、えぇっ?ちょっと、千早ちゃん、どういうこと?」 冗談を言い合いながら、ベッドに潜り込む。シーツの冷たさに、思わず声が出そうになる。 この冷たさの中で、千早ちゃんは寝てるんだ。 「ねえ、千早ちゃん。ちょっとおしゃべりしない?なんだか修学旅行みたいで、すぐには寝れそうにないよ」 「しょうがないわね。いいわよ、何を話しましょうか」 「そうだねー…あっ、そうだ、美希ちゃん帰ってきてよかったね。これでみんなで揃ってレッスン出来るね」 「ええ、本当に良かったわ。美希はちょっとマイペースすぎるかしら・・・」 「あはは、マイペースじゃない美希ちゃんなんて、美希ちゃんじゃないよ」 「大抵のところでは寝られるのも、マイペースな美希だからこそよね。本当、良くも悪くもマイペースだわ」 「あ、そういえば美希ちゃんといえばね…」 他愛ない雑談。シーツの下の手足が温まってくる。私の体温が、冷たさを押しのける。 そっと、足を絡ませてみる。 「あ、春香…」 「ふふふ、こうするともっとあったかいよ?」 冷たい千早ちゃんの足。 「春香…」 何も言わず、千早ちゃんの首に腕を回す。そっと、額と額をくっつける。とても熱い、そこ。 千早ちゃんの目を覗き込む。アーモンドみたい、綺麗な茶色。熱に浮かされた頭でぼんやりと思う。 千早ちゃんの瞳は微動だにしない。私を射るように、まっすぐ。なんだか千早ちゃんの視線が気になって、逃げるように頬をこすりつける。 「…んっ…」 呻く声を上げたのは、どちらだろうか。きっと、どちらでもない。ああ、やっぱり私、頭悪い。ぼんやりと頭の片隅で思う。 千早ちゃんの首に顔をうずめて、千早ちゃんの匂いに包まれて、千早ちゃんの体温を感じる。 「千早ちゃん…」 「どうしたの、春香。さっきからちょっと変よ?」 うん、分かってる。でも、どうしようもなくて。でも、止める気にはなれなくて。 「千早ちゃん…寂しくない?」 言った。 「前にも言ったでしょう?これは私の選んだこと、だから大丈夫よ」 「なら……時々こうやって、泊まりに来ていい?一緒にお買い物して、御飯作って、お風呂入って、お勉強して、一緒に寝るの。  ううん、そうしたいの。だって千早ちゃん見てると…すごく心配になる」 もっと色々言うつもりだった。だって、溢れてきちゃうから。 でも。 「・・・・・・ありがとう、春香。春香は優しいのね」 きゅっ、と音がした。比喩なんかじゃない、本当に胸の奥底で。 「…そんなことないよ。だって、私がそうしたいだけだもん」 「ふふっ、それでも言わせて。…ありがとう、春香。本当に」 ――――ねえ、千早ちゃん。 「えへへ…あんまり褒められると、困っちゃうよぅ。うふふ」 「さ、いい加減そろそろ寝ましょう。明日も一日レッスンなのだし」 ――――それなら、どうして。 「うん。それじゃ、おやすみ、千早ちゃん…」 「ええ、おやすみ、春香」 ――――そんな困った顔で微笑むの? * * * * * * * * 隣から可愛らしい寝息が聞こえる。全く、人の気も知らないで。 "感情が高ぶると手がつけられない"。彼女に対する事務所の評価は適切だと思う。 本当に前向きで、一途で、他人の痛みに敏感な娘だ。最近の春香を見ていると特にそう思う。私には出来ない立ち振る舞い。 私の"弱点"は分かりやすい。それをオープンにして、安い同情を買う気はさらさらない。だが、一度でもそこを見てしまった春香には見逃せないのだろう。 もしも、誰かが春香の前で悲しめば。嫌な想像が頭を過ぎる。ぎゅっと、シーツを握る力に手が籠もる。嫌な、浅ましい女だと、心底思う。 春香、春香、春香。まるで聖句のように。心の中で繰り返しても、何も変わらない。当たり前だ、何かを変えるには行動しなくてはならないのだから。 恐らく春香は行動した。春香は見ていてとても分かりやすい。シャワーを浴びて、湿った髪をタオルで挟むようにして水気を取る春香を見て、すぐにぴんときた。 瞳に力がある。まっすぐ私を射ぬく、強くて温かい光。 行動する春香、選択した私。涙を流す春香、泣かない私。ピンクが似合う春香、青がイメージカラーの私。 対照的な自分たちを想像して、なんだか急に今までの心配事がひどくくだらないものに思えてきた。途端、眠気が襲う。 ――――いい加減寝よう。明日も頑張らなきゃ。おやすみなさい、春香。 やはり春香に付き合っていたせいか、かなり疲れていたようだ。 薄れ行く視界と一緒にぼやけていく、春香の寝顔。冷たい布団の中で、春香の寝息を感じながら、一人、目を閉じた。