=================================== 注意:春香の性格に対して独自的偏見が入っています。 ===================================  どうしてそんなことしたの。と問われたら、無意識としか答えられない。  ご自由にどうぞと一筆添えられたドーナツに手を伸ばすように。  ココアの粉末を入れたマグカップにはお湯を注ぐように。  意識なんて介していない。謂わば条件反射。  ただ無意識に。  ただ無心に。  ただ夢中に。  どうしてそんなことしたのと問われたら―――だって。そこに春香の寝顔があったから。  ばか春香。      てっきり届いていないと思ったのに短い返事が返ってきた。 「……聞こえたの?」 「バッチリだよー。陰口叩かれるよりはマシだけど、面と向かって言われるのも突き刺さものがあるよ」 「呟きを聞き逃さないなんて、集中力がない証拠なの。勉強してる意味ないと思うな」 「誰のせいで勉強しづらい体勢になったと思ってるの」  参考書にすっぽり顔を隠した春香は、悪態はつけども身体を翻すことも上体を起こすこともしなかった。  おかげでミキは振り落とされることなく、春香の胸に顔を埋めたまま、トクトクと脈打つ静かな音に耳を傾ける。  春香の胸は上下に、休むことなく規則正しいリズムで動いている。  当たり前のことだけれど。  その当たり前がすごく心地良い。  日が落ち始め、世界がオレンジ色に染まる頃の事務所は、まるで人類が滅んでしまったかのように静かで寂しい。  カタカタと小鳥の打つタイピング音だけが事務所内に響いて、余計寂寥感を募らせる。  そんな事務所の隅の一角、ミキのお気に入り寝具――もといソファに春香とミキはいる。  いる、というか座っている。もう少し詳しく描写するなら、ソファに仰向けになった春香に、ミキが乗っかっている。  たぶん、小鳥が目撃したら一日中ピーチク騒ぎそうな体位。  でこちゃんだったら、顔を熟れたトマトにしながら雷の一つは落としてきそう。  亜美真美だったら、嬉々として乗っかってくるに違いない。鏡餅のできあがり。 「美希、寝ないでよ。重たいよ」 「むぅ。女の子に対して重いとか失礼なの、デリカシーがないの」  こんな体勢になるにはそう時間はかからなかった。貴音の愛して病まない3分ラーメンよりも簡単、手間いらず。  ソファに腰掛け机の上に勉強道具を広げ、参考書と闘いを繰り広げる春香に対して、  『あのね、ソファに寝っ転がってほしいの。うん、仰向けになって。むぅ、勉強しながらでいいから。ほら、早く!   ……もう少し中心がいいかな。うん、そう。やればできるの春香!』  そう言って、あとは仰向けになった春香のお腹辺りに腰を下ろせば、春香の圧倒的服従ポーズと、ミキの圧倒的優位な体位に早変わり。 「ねぇねぇ、春香」 「んー。なに?」 「………なんでもないの」  細い春香の身体は、僅かな発声であっても全身の細胞を震わせ、ミキを静かに揺らす。揺りかごに身を委ねているみたい。  きっと、真っ白い雲の上で昼寝をしたらこんな感じ。  ふわふわの極上羽毛と讃えてもいい、ミキを支えて包み込む春香のお腹をゆっくりと触る。  薄い皮とほんの少しの肉、その向こう側に隠された角張った骨。  あまりにも弱々しい外壁はちょっと力を入れたら壊れてしまいそうで。  腫れ物に触るみたいに表面をなぞっていたら、春香が初めて身じろぎした。   「ちょ、ミキ、こそばゆいよ」 「もう。動かないでよ春香。ちゃんと勉強してるの?」 「無理だよー。こんな状況で頭に入るわけないじゃない」 「言い訳がましいの。女々しいの」 「うぅ……じゃあ、せめて指を動かすのやめてもらえないかな? 脇腹は弱いよ」 「仕方ないの」  ミキも鬼じゃないから、お触りは一旦やめにする。 「……ねぇ、美希、そろそろ気はすんだかな? 春香さん、そろそろ本格的に勉強しないとやばいんだよ」 「や、なの」 「試験終わったら何でもしてあげるから。そうだ! ミキの好きなお菓子を作ってあげるよ」 「や、なの。あ、でもお菓子は貰うね。ドーナツでよろしくなの!」 「我が儘だよこの子ー」  これ見よがしにため息をついた春香は、でも、ミキを上から退かそうとはしない。  少し上体を起こせば形勢は逆転するのに。  小さい手でちょっとミキの肩を遠ざけるだけなのに。  でも、そんなこと春香は全くしないから、ミキは相変わらず春香の上で、静かな呼吸音と鼓動を受け止める。  遠くから小鳥のタイピング音が心地良く駆けていく。  賑やかというよりは騒がしいという言葉が似合う事務所には、けれども今は誰の声もしない。  世界に2人、取り残されたよう。  あぁ。まるであの時のよう。 「春香」  春香の顔を覆い隠している参考書を略奪する。  参考書の奥に隠れていた視線が遠のくノートを追っていき、完全に奪われたと認識するとエメラルドグリーンの瞳はミキを捉えた。 「なんで普段通りなの」  春香は目を丸くした。なにが? と不思議そうな声を出し、あめ玉みたいにキラキラ丸い瞳をミキに向けた。  柔らかい色。春香の持つ翡翠は、世界にふたつとない唯一無二の色。  鮮やかさと艶やかさと優しさと甘さを兼ね備えた色。  ミキの好きな色。 「ミキ、春香にキスしたんだよ」  やっぱりミキはこの色に恋をしている。  ノアの箱船に乗り遅れたみたいに、静まり帰った世界だった。  でも実際はそんなことはなく、扉を開けたらいつも通り小鳥の背中が見えて、お帰りなさいと迎えられた。  『誰もいないの?』  がらんとした事務所には、時計の音が流れていた。  『春香ちゃんがいるはずよ?』  ココアを淹れましょうかと尋ねる小鳥の提案を断って、隣の部屋に足を踏み入れればミキのお気に入りのソファに栗色の髪が舞っていた。  『春香』  呼ぶ。  『春香?』  静寂が返ってくる。  『春香』  不審がって近づけば、その目は閉じられていて、規則正しい寝息が流れていた。  『春香』  すぐ近くにある春香の頬は白くて、唇は淡いピンク色だった。  『春香』  カチリと時計の針が動いた。    気づいたらミキは柔らかい唇の感触を得ていて。  重なった唇を離せば、夢から覚めた翡翠の瞳がミキを驚きの表情で見ていた。 「春香にキスしたのに。なんで何も言わないの。なんで普段通りなの」 「え、ええと、美希。とりあえず落ち着いて」 「質問に答えてほしいの! ミキ、あれから春香のこと、ちょっと避けてたりしたの」 「あ、避けられてたんだ………」 「それなのに! なんか春香はいつも通り接してくるし。今だってこんな状況なのに何も言わないし。押し倒されてる自覚ないの?」 「倒されたというか、寝転がったというか」 「もう! 言い訳はいいの! 真面目に答えて欲しいの!」  眉間に皺が寄ってるのを自分で感じる。  こんな顔、全然かわいくない。最悪最低。アイドル失格。  もう、すべて春香のせいだ。 「ミキ。春香に、キス、したんだよ」 「……うん、知ってるよ」  ぽんっと背中を叩かれた。  泣きじゃくる子供をあやすように、優しい春香の手がミキを包み込む。 「何か、言うことないの。ミキに対して」 「え、えぇっと………実はあれ、春香さんのファーストキスだったんだよー、と、か」 「っ!!」  せり上がってくる罵倒の言葉を飲み込んで、代わりに春香の頬を両手で挟み込む。バチン。  勢いがありすぎて痛みを伴ったのだろう、春香はきゅっと目を瞑って衝撃に耐えていた。  けどそれも一瞬で、直ぐに瞼をあげた春香はミキを慈悲の瞳で見つめた。  憐れみ。慈しみ。  背中に回された手は温かい。 「春香のこと考えると胸がぎゅーって締め付けられて、心臓がどくどくうるさいの。 「ふとした時に春香のこと思い出すの。何してるのかな、とか。何考えてるのかな、とか。 「ミキね、春香の一番になりたくてしかたないの。 「一番ミキに笑いかけて欲しいの。一番ギュッて抱きしめてほしいの。 「ねぇ。ミキ、ね。春香に恋してるんだよ」  春香はずっと、じっと、静かに、見守るようにミキを見ていた。  あやすようにポンっと背中を叩いては、ミキの積もりに積もった想いを吐き出させているようだった。   「春香は……春香はどう思う? ミキのこと、どう思う?」  思った以上に涙声で、なんでだろって自分自身に驚いた。  今にも消えそうな、か細い声で春香を見下ろしてた。  ミキの大好きなグリーンの瞳は、困り果てたように宙を巡回し、僅かに開かれた唇からは戸惑いの息が漏れている。  分かってる。分かってるの。  ミキは知ってるよ。  春香が何も言えないこと。  分かってる。分かってるの。  律子が言ってた。"あれ"はあなたの性分と同じだって。    『春香はね。何個も器を持ってるのよ』    普通の人ならその器はたったひとつで。そのひとつの器で持って許容を決めるのだけれど。    『春香は複数持ってるから、人から渡されたものを、与えられたものをその器に入れていく』    満杯になったら次の器をだして、また満杯になったら次の器。    『春香は何でも受け入れるのよ』    特に他人の想いには人一倍。    『無自覚に』    あなたが世間知らずで、他人に対して礼儀がなってないように。敬意を払えないように。    『"あれ"が春香の性分なの』    良い意味でも。悪い意味でも。    『拒否できない』 「もういい、もういいよ……」  かぶりを振って、とうとう紡がれなかった春香の言葉を遮る。  長い沈黙に、ある程度答えを貰ったと言ってもいいんじゃないかな。 「気持ち悪かったね、ごめんね」  春香は馬鹿だなぁ。改めてそう思う。  ミキみたいに直答するべきなの。  ひっきりなしに告白してくる男の子たちに対して『キラキラできないから』『興味ないから』とか10文字以内で端的に答えれるように。  他人の気持ちなんて考えず、思いついた単語述べちゃえばいい。  …………あ、やっぱりだめ。  そんなことされたら今、この場で大泣きしちゃう自信がある。 「……あの、ね、美希」 「もう。春香は黙ってて」  春香は眉を寄せて、涙に潤ました瞳をミキに向けた。  大きな瞳は鏡みたいにミキを写そうとする。  それから逃げるように天井を仰ぎ見た。 「……ははっ。嘘。嘘だよ、春香。もしかして騙された? 春香に告白するなんてあり得ないの」 「……」 「ミキの演技も大したもんなの。ま、相手が春香だったというのもあるけれど。春香、すぐに本気にしちゃうから」 「……」 「驚いた春香の顔、写メっておけば良かったかな。失敗したの」 「美希」  両頬に熱い指先が触れる。  そのままぐいっと、有無も言わせぬ力で正面を向けさせられた。 「じゃあ……美希はなんで泣いてるの?」  両頬を挟んだ春香の手に、透明な液体が伝って流れ落ちた。音もなく。  春香の表情は滲んで、まったく分からなかった。  口の中がしょっぱい。  海で溺れてしまったみたい。  きっとこんな時は運動が得意な真君か響に助けを求めるべきなんだ。きっと、そう。 「――キス、していい?」  でも、ミキが手を伸ばすのは春香であって。 「………うん」  それでもって優しい声が返ってくるから、ミキはその身体にしがみつくんだ。  波に流されないように。      やっぱり春香は馬鹿だ。    ばか春香。