765プロの一角にある小さな部屋。 ここは本来は倉庫なのだが衣装や資料や古いプリンターの類は極力隅に寄せられ積み重ねられ、 主たるスペースにはマホガニーと見られる高そうな猫足のデスクと椅子が据えてあり、 サイドにはこれも猫足の高級品と思しき小ぶりの食器棚にウエッジウッドとかそんな感じの、 食器棚にふさわしい高そうなティーセットが並んでいる。 デスクの向かいにはこれまたマホガニーのアンティーク風スツール。 それだけ置いたらこの部屋はいっぱいいっぱいでぶっちゃけ狭苦しいのだが、 この部屋の実質上の主、水瀬伊織は今日もここで優雅に紅茶を飲んでいる。 コンコン。 「はい。どうぞ」 この事務所に所属する双子が小学校の図工の時間に作った、 『いおりんお悩み相談室』という表札が下がったドアをノックして入ってきたのは、 アイドル兼プロデューサー兼事務員のあの人。 「今、いい?」 「いいわよ」 素っ気ない返事にも特に臆することなく、デスク前のソファに座る。 「一応先に言っとくけど、もうほぼ大人のアンタが中学生に人生相談ってどうなの」 「私だってたまには突っ込んでほしいわよ」 「…難儀なことね」 伊織が軽くため息をつきながらデスクの呼び鈴を押すと、ドアを開けて萩原雪歩が現れた。 「緑茶でいいの?」 「うん」 「じゃあお茶を。私も頂くわ」 「はい、ただ今」 雪歩がにこやかに一礼して、ドアの外、具体的には給湯室にお茶を淹れに出てゆく。 「いつも思うけど、雪歩は伊織の何なの?」 「話せば長いのよ、色々と」 雪歩が二人にお茶を出して再び退出する。お茶菓子は先日社長が京都出張土産に買ってきた生八橋である。 「で、何なの?」 「美希のことなんだけど」 雪歩のお茶を啜りながら律子がそう言うと、伊織もやはり、と今更?が混じった表情を浮かべながらお茶を飲む。 「アンタたちはもうすっかり上手くいってるんじゃないの?」 「ああ、そういう意味では順調ね」 「じゃあ何よ。あの三年寝太郎も最近は結構真面目にやってるって聞いてるけど?」 「うん、美希は全然問題なくって」 律子が生八橋をひとつ口にいれて「うめえ」と呟き、またお茶を飲む。 「私の性癖のことなんだけど」 「帰って」 「まあそう言わずに聞くだけ聞いてよ」 「アンタねえ、中学生相手に何言い出すのよ」 「私の相手だって中学生だし」 「余計悪いじゃない!アグネス呼ぶわよ!」 「ノッてきたわね。その調子で頼むわ」 「…で、アンタの性癖なんか興味もないけど、何が問題なのよ?」 すでに少し疲れが顔に浮かんできた。 「問題っていうか」また生八橋を手に取る。 「あの子、近頃結構しっかりしてきた部分もあるから、私がだらけてると注意したり、  疲れてる時はフォローしてくれたりすることがあるのよ」 「へえ。ゆとりも変われば変わるものね」 「まあ、まだたまにってレベルだけどね。でも、そういう時、妙に嬉しいっていうか、  ゾクゾクするような感覚さえ感じることがあるの、最近」 「はあ。まあアンタの本質はドMだし」 「いや、そうかもしれないけど」 「認めるの!?」 「MとかSとかはまたちょっと話が違うからとりあえず置いといて。  なんかこう、あの子にリードされることに妙な快感を覚えることに気づいたのよ」 伊織も半目になりつつ生八橋を手に取って口に運ぶ。ああ八橋の味だな、と思う。 「それは、元がアレだから、成長が嬉しいってことなんじゃないの?」 一応、フォローを試みる。 「それは確かにあるわね。ここまで来るには随分苦労したし」 そう言って、律子は手のひらの中の湯のみに視線を落とし、少しの間口をつぐんだ。 過去の日々を思い返しているのだろう。 「アンタたちが引っ付くまでにも色々あったしね」 「その節は水瀬先生にもお世話になって」 「よしなさいよ。で、結局何なの?」 「だからさ、今までは私があの子を引っ張って、導いてきたつもりだったけど、  本当はあの子の尻に敷かれてヘラヘラしてたいのかなって、思ったりするわけ」 「はあ…」 心底どうでもいい、と伊織は心の中で呟いた。 「別にいいじゃない、尻でもなんでも敷かれてなさいよ」 「でもそれはさあ。私だって、人間としても芸能人としてもまだまだ成長したいのよ。  でも美希の成長は早すぎて、すぐにあらゆる面で私を追い抜いて、ずっと先へいってしまいそうで。  あの子が引っ張ってってくれるようになったら、それに甘え続けて抜け出せなくなりそうで。  …自惚れかもしれないけど、そうなってもあの子は私から離れないと思う。  だけど私は、あの子と並んで立つのにふさわしい人間でいられるのかしら。  このままじゃただのヒモになってるんじゃないかって」 全く、面倒くさい。 だけどこういうところが秋月律子という女の核心で、愛される部分じゃないだろうかとも思う。 「よく分かんないけど」残り一つの生八橋は譲ることにする。 「アンタ、普段から効率主義みたいなことばっか言ってるから、そんなくだらないことで不安になるんじゃないの?」 「どういうこと?」 「物事見切りつけるのが早すぎるっての。  大体ね、美希のヒモになってるかもって、それ何年後の話よ。一年後?五年後?十年後?  仮に五年後に美希がトップアイドルでアンタがヒモになってたとしても、  アンタの人生たかだか二十台半ばで停止なわけ?そこからまた変わっていくって発想はないの?  それともヒモな自分に嘆いて美希ともさよならするつもり?  そこまで性根が腐ってるなら私もアンタに用はないわね。  一般人に戻ってひっそり暮らすなり芸能界に意地汚くしがみつくなり、好きにすれば?  私も美希もそこまで人を見る目がないとは思ってないけどね。  アンタは時々手抜きする性質だから、気を許した相手には甘えが出るだけでしょ。  たまには人を頼って楽したいって、そんなこと誰だって思うわよ。修行僧じゃないんだから。  頼り頼られってのがまともな人間関係ってもんじゃない。  今までは美希がアンタを頼ることが多かったけど、その割合が少し変わってくだけのことよ。  いちいちビビッてんじゃないわよ。  万一アンタが美希のヒモに成り下がって満足してるようなら、目が覚めるまで蹴り飛ばしてやるわ。  だからグダグダ言ってないで、自分のやるべきことをやりなさい。  そもそもあのおにぎり魔人のことを気にしすぎなのよ、アンタは。  もっと自分のことを考えて、自分のために行動すべきなの。分かった?」 一気にまくし立てると、それまで黙って聞いていた律子は残ったお茶を飲み干して、しみじみ言った。 「いやあ、伊織の罵倒は本当にいいわね」 「今度こそ本気で叩き出すわよ」 「将来私が政財界に影響力を持ったら、絶対伊織が文化勲章もらえるよう尽力するわ。  人類を鼓舞し続けた功績で」 「与太はいいから、納得したんならさっさと行きなさい。あ、生八橋、私はもういいから食べちゃって」 「ありがと」 最後の一個をつまんで口に放り込むと、もぐもぐしながら席を立って、もう一度言った。 「ありがとう、伊織」 「はいはい、もう来ないでね」 律子が出て行くと同時に、はぁーっとため息が出る。 すかさずドアが開いて、お盆を持った雪歩が現れた。 「お疲れ様」 湯のみと菓子皿を片付けながら、声をかける。 「私だって、そんなに人生達観してるわけじゃないのに…」 ぼやく伊織を、雪歩が優しい微笑みで包む。 「でも、伊織ちゃんに言ってもらうとなんだか安心するんだよ、みんな」 「いい気なものね…」 口ではそう言っていても、お悩み相談室の看板を掲げているではないかというツッコミは、765プロでは禁句である。 廃業されると何かと困るので。 「私が落ち込んだ時は誰に励ましてもらえばいいのよ」 「私じゃ駄目かな?…あ、返事はしなくていいよ」 雪歩も前はこんなに落ち着いてなかったはずだけど、人間変われば変わるものね。 でも、変化の一因は私にもあるのか。 そんなことを思い、返事の代わりに言った。 「アールグレイをお願い。それから、あなたもしばらくここにいて」 「うん。すぐ淹れてくるから、ちょっと待っててね」 雪歩が出ていってドアが閉まると、伊織は椅子の背にもたれて、まあなんだかんだ言っても、 悪くないわね、と小さく呟いた。 <了>