春香。 私の、世界で一番の―――― 自身の右手に、春香の左手を感じながら、私と春香は昼の街中を歩いていた。 土曜日に私と春香が一緒にオフを取れたのは久しぶりだったので、こうして昼間から二人で出かけることになったのだ。とりあえずと最初に行くことになった映画館を、今二人で出たところだ。 「やっぱりジョーンズの最後の言葉がグッとくるよね!」 ……そうだろうか?ジョーンズ――つい先程二人で見た映画の主人公――の最後の言葉と言えば、愛する妻への別れの言葉だったのだが、私にはぐっとくるものがなかった。そもそも妻をこの世で最も愛する夫、という人物像に、性別という垣根を越えて感情移入できるほどの感受性を、私は持っていない。これが歌となれば話は別なのだけれど、かなしいかな春香は、CDショップよりも映画館がお好みのようだった。 「……そうね。『来世でも君と添い遂げたい』なんて、私も言われてみたいわ」 また。また春香に嘘をついた。数え切れないほど、私は春香に嘘を吐いている。 私はなんて醜い人間なのだろう。大好きな春香に強引に話を合わせ、ゴマをするように春香の機嫌をとり、好感度を稼ぐようなまねをする。 春香に気に入られたいから春香に嘘を吐くなんて、最低だ。きっと、こんなことをしているなんてバレてしまえば嫌われるだろう。自分でもこんな自分が嫌になるのだから、春香が私を嫌にならないわけ無い。 だから、やめることはできない。ここまで来てしまったのだ。もう後戻りなんてできない。 「だよねだよねー! あの俳優さんもカッコよかったし、きっと女優さんも演技とか抜きで嬉しかっただろうな〜」 そう?あんな男より、春香のほうが何京倍も素敵よ。なんて、それこそジョーンズのように言えたのなら、どんなに良いだろうか。けれど、私と春香を繋ぐのは、嘘で作られた偽物の絆。そんなもので春香にすりつく私に、そんな台詞を言う資格などない。 これ以上会話をしても、私の口からは嘘しか吐き出されないだろう。 私はこういう時いつだって、話題を少し逸らす。嘘を吐くのが嫌だから。傷付きたくないから。結局春香より、自分が一番かわいいから。 「春香は女優業に片足突っ込んでいるけれど、本格的に女優として活動するつもりはあるの?」 「ん〜……。わかんない……かな。正直今は、来る仕事をこなすので一杯一杯。えへへ、でも、演技するのは楽しいなー。崇め奉りなさい!って!」 にこーっとこちらを向いて微笑む春香。表情と台詞がまったく合っていないのが、とてつもなく愛らしい。 春香が言っている台詞は、確か「無尽合体キサラギ」のことだろう。春香がまさかの悪役(しかも諸悪の根源)で、私と萩原さん、律子にあずささんがモチーフのロボットと戦ったり合体したりされたりする荒唐無稽なSFモノだ。春香や私をはじめとした765プロメンバーが総出演するのだが(なんと律子も)撮影現場では私だけが、役に入り込めず、貴重な体験を楽めなかったと思う。ロボット役の私に与えられた仕事は、アフレコという、完成している映像に、後から付け加えるための音声を収録するだけだった。みんなでやるのならまだしも、スケジュールの都合で私は一人延々と音響監督さんに罵られ続けられることになってしまい、とてもじゃないが楽しいとは思えなかった。 そういうわけで、春香が発したこの台詞から、春香が気に入っているであろうあの映画へと話題が発展していくのはマズい。私と春香では、抱く感想がまるで違う。馳せる想いだって、雲泥の差だ。 「そういえば春香はあの映画、ノリノリだったわね。本当の自分を曝け出した、ってかんじだったのかしら?」 もし春香の本性が、あの映画で春香が演じたキャラクターのように悪辣で外道だったとしたら、私の行いは許されるだろうか。春香も私と同じように、本心を隠し、必死で周りに合わせているのだとしたら……。 「そんなわけないよ!? っていうか千早ちゃん私をそんな風に見てたの!?」 春香の隠された非人道性に、少しでも期待してしまった私を叱責するような言葉だった。もちろんそうではないのだろうけれど、ついさっきそんな風なことを考えてしまった手前、どうにも春香の言葉が、胸に深く刺さってしまう。ごめんなさいと、私は小さく謝った。 「ふふっ。冗談よ、春香」 「もう……千早ちゃぁん……」 拗ねるように言って、絡み合った右腕を強く握られる。春香はいつも、私が意地悪をするたびこうやってより強く繋がろうとする。寂しがりやの兎のようで、とても可愛らしい。 「今日は楽しかったわ。春香」 いつだったか私が歌えなくなってしまったあの時と同じように、部屋の扉の前まで、春香はいつもついてきてくれる。 春香はあの日から、何も変わっていないのだろうか。 あの日と構図が同じというだけでそう断定するのはどう考えても愚かしいのだが、否定できるわけでもない。変わらないままなのだろうか。あの日と変わらないまま、いつまでも、春香は私のことを想ってくれるのだろうか。私はいつも不安で、確かめ合ったはずの気持ちすら、確認して、深め合いたいと思ってしまう。 変わらない人間などいないと、私という実例で教えてくれたのはほかでもない春香だから。 あの日から、私の中での『天海春香』は、間違いなく変わった。友達でも、親友でもない域に、春香が位置するようになった。それは私自身の大きな変化だとも思う。こんなにも人を好きになれるように、私はなれた。他人と関わることに興味を示さなかった私を、春香が変えてくれたのだ。今の私があるのは、春香のおかげなのだ。 春香にとっての私は、いったいどんな存在なのだろうか。眠れない夜に春香に会いたくなるように、春香が辛く悲しくなったら、春香は私を求めてくれるのだろうか。 私がどんな春香でもきっと受け入れられるように、春香もまた、こんな私を受け入れて、包み込んで、愛してくれるだろうか。 そんなことを思ったから、咄嗟に、私は口に出していた。 「春香……。春香は、どんな私でも……嫌いにならない?」 「どんな千早ちゃんでも……?」 「ええ。……そう」 嚥下するように、深く返答すると、私と春香の間に、奇妙な沈黙が生まれた。それは私の不安を餌により濃く、深くなっていく。春香。春香は今、一体何を考えているの。 「んー……そうだねぇ……」 少しして。亜美や真美のソレと本質的に同じ笑みを、今日初めて春香が見せた。あぁこれは、何か悪い冗談でも発するときの笑い方だ。 確定した未来への流れに身をゆだねるのはとても楽だった。今までの心労が吹き飛んでいく。私は急かすように、春香にその先を促した。 「嫌いになっちゃうかもなぁ……」 「どうしたら春香は私のこと、嫌いにならない?」 「ん」 眼を瞑って春香は、私に向かって、そのちいさくて柔らかい唇を突き出す。鳥が求愛に泣き声を要するように、春香の愛に応えるには相応の行動が必要らしかった。 春香も、確証が欲しいのだろうか。 キスをすることで、私の気持ちを知ろうとしているのだろうか。 愛されているという実感を、欲しているのだろうか。 だとすればそれはとても素敵なことで、春香があの日から、何一つ変わらない証明になる。 春香は変わっていない。あの日から、今もずっと、私のことを大切に思ってくれて、大切にしてくれている。求めれば応えてくれるし、求めずとも求めてくれる。 変わってしまったのは、私だけ。 あの日、嘘で偽ることを覚えてしまった。汚いやりかたを、憶えてしまったから。春香に求められれば求められるほど、春香との間に溝が出来てしまう。嘘が堆積して、取り返しがつかなくなるほど。 だからだろうか。涙が溢れてきて、どうしても止めることができなくて。 私は春香から逃げるように、部屋の扉を閉じた。 あれから何分経ったのか。布団に包まってただただ眼を瞑っていた私にはわからない。携帯電話で時間を確認すると、春香からメールが来ていた。 2011/12/4 19:20 FROM:春香 SUB:大丈夫? 具合が悪いなら、ちゃんと休むのが一番だからねo(*^∀^*)o! 千早ちゃんは無茶しやすいんだから、気をつけなきゃだよ! 「…………」 春香らしい、悪く言えばおせっかいなメールだった。毎晩かわすメールも、けれど今日だけは返せそうにない。 春香は傷ついているだろうか。キスしなかったことに、私と同じような不安を感じているのだろうか。だとしたら伝えなければならない。好きだと。愛していると。 「さっきは出来なかったくせに……」 私は春香の愛に、応えることができなかった。春香の無垢な愛に応える資格がないと、今更になって気付いてしまった。嘘で作られた春香の中での「如月千早」は、本当の私ではないのだから。 春香。本当の私は、あなたの大切なことのほとんどを、どうでもいいと斬って捨てることができる酷い女なの。趣味趣向興味価値感が、全部違っているの。お菓子なんて歌に必要じゃないし、長電話だってそう、芸能界を生き抜くことすら、もうどうだっていいのかもしれない。 そんな私を、春香は知らない。 後悔が、際限無く私を襲う。 こんなに違う私と春香。けれど、あの日までは上手くやっていけた。事務所の皆とも、勿論仲の良さに違いはあれど、喧嘩することは少なかったし、毎日が楽しかった。 もしかしたら私は、あの日のままで良かったのかもしれない。あの日までのように、本音で春香と触れ合っていれば、こんなつらい思いをしなくても済むのかもしれない。 もっと仲良くなりたいと、思ってしまったから。 だから春香に合わせて、必死で取り繕って、ゴマをするように、春香に嘘を吐き続けた。 それは間違いだったのだろうか。ならばどうすれば良かったのだろうか。本音で向き合ったとして、全てが違う私と春香に、はたして今以上の関係が訪れたのだろうか。 私は間違っているのかもしれない。そもそも私は、春香とつりあうような人間ではないのではないだろうか。塔に閉じ込められた眠り姫に、そこらへんの凡百で特徴のない村人が恋をしてしまったように。春香と私の関係はまさにその姫様と村人のソレと同じなのではないだろうか。叶うはずもなく、抗う方法もない……。 最初から、諦めなければならないことだったのかもしれない。 めぐり合えたのは偶然で、愛し合えたのは嘘偽りのおかげ。 そう考えれば、全てに納得がいくような気がして――――。 いつの間にか私は、そのまま眠りについていた。 2011/12/5 07:25 FROM:プロデューサー SUB:Re:本日 午前はドラマの収録。午後からはレッスンだけど、どうかしたのか? 「…………」 プロデューサーから信頼されているのか、今日の春香のスケジュールを把握するのに、別段労力は必要なかった。 午前はドラマの収録、午後かはらレッスン。今日の私とは正反対なスケジュールだ。私がレッスンをしている午前中は、春香が収録。私が収録をする午後からは、春香がレッスン。どうやら、事務所にて鉢合う可能性はほとんどないようだ。 その事実にほっとしながらも、「ほっとした」という事実に苛立ちを覚える。 春香から、私は逃げようとしている。それが何故なのか、自分でも分からない。後ろめたいからなのか、罪悪感があるからなのか、私の中の春香を、私のことを好きでいてくれる春香のままにしておきたいからなのか。 春香と、これからも今までと同じように接したいからなのか。 煮え切らない自分が、私は嫌いだ。嘘を吐いて、春香を欺いていたことに申し訳なさを感じているくせに、私はまだ、春香を求めている。 考えて、考えて。答えは出るのだろうか。春香に会いたくない理由が明らかになったら、春香に会おうと思えるのだろうか。会って、諦めることができるのだろうか。 こんな時、失礼だが、直感で行動できる美希のような性格が羨ましい。私はどうも、邪推に邪推を重ね、自縄自縛に陥るタイプなのだ。 春香なら、なんて言ってくれるだろう。 あなたに会って、愛していると伝えたいけれど、私にはそんな資格なんてないの。だからあなたに会って、きちんと私の汚い部分を曝け出して、私はあなたを諦めなければならないの。だけど私は、いつまでも、あなたを愛していたい。あなたに愛されていたいの。 なんて言う資格も、結局私にはないのだろう。 「とにかく今日は……仕事に集中しなきゃ……」 午前中に収録する予定の番組には、芸能界の大御所も多数出演する長寿番組だ。気を抜いてはいられない。失敗が許されないわけではないが、成功は必ず歓迎される。 「おはようござ――」 いつものように控えめな声とともに、765プロの少し古ぼけたドアノブをひねろうとした、その時だった。美しい声が聞こえる。春香の声だ。 「小鳥さんは、どう思いますか……?」 話し相手は、音無さんだろうか? 一体何を話しているのだろう。春香に出会ってしまうかもしれないというのに、不思議と、私はその場を動くことができなくなった。 「う〜ん……。千早ちゃんは結構、自己嫌悪に陥りやすい子だから……もしかしたら……」 千早ちゃん、とは間違いなく私のことだろう。私の話をしている……? 昨日のことだろうか。春香の気持ちを知るのは、少し怖い。 「やっぱり、無理してる自分が嫌になって、みたいな感じですか……?」 心臓がドクンと、大きく音を立てた。無視をしている? 私が? いつ? もしかしてばれている? 春香に? 全て? 「そうね。春香ちゃんの話を聞く限り、千早ちゃんはだいぶ無理をして春香ちゃんに接してる……。千早ちゃんのことだから、どうしてもそんな自分を認められないのかもねぇ……」 「やっぱり、私が悪いんですか……? 千早ちゃんに、あれもこれも、意見を押し付けちゃって……」 「そんなことないわ春香ちゃん。春香ちゃんは悪くないし、もちろん千早ちゃんだって悪くない。若気の至りよ。私だって経験したことがあるもの」 なんということだろう。 春香は、全部知っていた。私が無理をして春香に合わせていることを、知っていて、その上で接してくれていた。その上で、愛してくれたのだ。 私はなんて愚かだったのだろう。春香にとっては「嘘を吐く私」ですら、本当の私の一部だったのだ。私の醜い部分をいつも隣で見ていてなお、春香は、私を受け入れてくれていたのだ。許してもらおうと思ったこともあったが、春香はそもそも、許す許さない以前に私のことを、きちんと理解してくれていたのだ。 私は春香の、うわべだけを見ていたのかもしれない。春香の言葉だけを感じて、それに合わせただけで、春香に合わせた気になっていた。けれど春香は違った。きっと私の全てを、感じてくれていたんだ。だから、嘘もばれていた。だから、それでも私を愛してくれた。 謝らなければならない。詫びなければならない。伝えなければならない。 私の気持ちを、ごめんなさいを、ありがとうを。 「春香っ!」 扉を思い切り開けて、事務所に駆け込む。音無さんのデスクの隣に、春香が立っていた。 「ち、千早ちゃ――」 春香が私を呼ぶ前に、私は春香を抱きついた。泣いている自分がなんだか情けなくて、隠すように春香の胸に顔を埋めて、思いの丈を打ち明けた。 「ごめんなさい春香。ずっと、ずっと嘘を吐いていたの」 「……うん。知ってるよ」 春香は私の頭を撫でながら、そう言った。 「ごめんなさい。ごめんなさいっ……。私、春香に合わせれば、春香に気に入られると思って……」 「そんなことしなくても、千早ちゃんのこと、私は大好きなのになー」 「ごめんなさいっ……。ごめんなさいっ……」 そこから先は、嗚咽が酷くて言葉にならなかった。けれど、とにかく伝えたかった。春香の愛に、ごめんなさいを。春香の優しさに、ありがとうを。 「わ、わかったから。千早ちゃん、ちょっと落ち着いて……」 ゆっくり愛でるように、春香に頭を撫でられる。なんだかこそばゆいが、悪い気はしなかった。春香が全てを包んでくれる、そんな気がする。お陰で少しずつ、溢れる涙に歯止めがかかっていく。 「ご、ごめんな、さい……。春香、春香……」 「逆に怖いから! も〜……千早ちゃんは真面目だな〜。……だいたい、私だって悪いよ……。あれもこれも、千早ちゃんにいちいち押し付けちゃったし……」 「そんなことないわ。ひどいのはわたし……! わたしは、春香にっ……」 「もう、お相子さまだって〜」 「ど、うしても、どうしてもあやまりたいの」 「…………じゃあ、いっこだけ。いっこだけ、私の言うこと、聞いてくれる?」 「いうこと……?」 「もうウソは吐いちゃいけません! 私にも、みんなにも。私にはちゃんとわかるんだからね?」 「……うん。…………わかったわ」 「よし。じゃー許す! 千早ちゃん大好き!」 「ふふ。私も大好きよ……春香」 「おおぅ……。いきなり大胆だねー。小鳥さんが見てるのにー♪」 「どうでも、いいわ。ねぇ春香、愛してるって、言って?」 「恥ずかしいなぁ……」 「言って?」 「千早ちゃん、愛してるよ。……えへへ、なんか恥ずかしいな」 「そんなことないわ。……ねぇ春香。キスしましょう」 「キタキタキター! 音無小鳥2X歳! カメラは先ほどから回させていただいておりまする!」 「ちょっ!? ち、千早ちゃん! キスするのはいいけど、撮られてるよ!?」 「私たちは撮られて見られるのが仕事でしょう。どうってことないわ」 「えぇー……。それとこれとは、話が……。さ、さすがに人前じゃ、ね……?」 「いいのそんなこと。それより早く。早くしましょう」 「きゃ、きゃあ! ちちはやちゃん!? なんか怖いよっ」 「何よ。昨日は春香から求めてきたでしょ」 「う゛…………し、しかたない……。小鳥さん、撮るんなら可愛くお願いしますね」 そうして交わした口付けに、特別な意味などない。 ただ単に、証明されている愛を確認しただけ。 ただ単に、確定している未来に向かっただけ。 私は春香を愛していて、春香は私を愛してくれている。 そう確信して、そう思えて、その事実に身を浴すことが出来る。 これも全部、あなたのおかげ。 春香。 私の、世界で一番の大好き。 あなたには私の気持ちが届いているかしら。 なんて。もしかしたら、こう思うこの気持ちもバレバレなのかもしれない。 それでも伝えたい。言えなかった一言を。あふれ出るこの気持ちを。伝えなければいけない。 「ねぇ、春香――――」 「?」 「愛しているわ。あなたのことを」 いつまでもこの幸せが続くようにと、強く願うほど。