最初は些細なきっかけだったのだ。 天気予報が嘘をついて、私は偶然傘を持っていなかった。 事務所に行くのも、家に帰るのも少しだけ遠い場所にいて、彼女の部屋がすぐ近くなことを思い出した。 もし彼女がいるなら傘をかりて、いないなら部屋の前で雨宿りさせてもらおう。 ただそれだけの思考。 雨天決行の用件も無い、濡れるのが好きなわけでもない。 そして軒先をかりる程度でためらわなくてはいけない相手でもない。 誰だって考えうるありふれた思考、そのはずだった。 彼女の部屋に向かいながらメールを打つ。 彼女は本日オフだっただろうか? ユニットを組んでるわけでもない同僚のスケジュールまで把握していないので簡潔に。 『雨に降られて』『部屋の近くにいる』『傘を貸して欲しい』『いないなら部屋の前で雨宿りしたい』 なんともそっけないメールになったが、彼女はそういうことを気にするタイプではない。 むしろ、営業の合間に長々としたメールを送られたら顔をしかめるだろう。 すぐに返事が来た。 オフで急ぐ用が無いなら部屋に上がっていかないか、という内容だった。 どうやら彼女も本日はオフであったらしい。 部屋について招き入れられ、ドアを開けてくれた彼女に少し驚く。 事務所で会う彼女とはまったく違う雰囲気。服装がラフな部屋着になって、髪型が違うだけで全く違って見える。 怪訝な表情をされたので、素直に言うと彼女はうんざりとした表情になった。 どうにも、私以外の同僚たちも同じ反応をしたらしい。 聞くと彼女の部屋を訪れる同僚は結構な人数におよぶのだとか。 終電を逃した春香と快適な睡眠環境を求める美希がツートップだそうだ。 たまに帰ると美希がベットで丸まっているときがある、と彼女が笑う。 笑い事で済ましていいのだろうか、と思うが彼女がいいのならいいのだろうと納得しておく。 そんなことより雨が降っていたなら寒かったでしょう、と彼女がコーヒーを淹れてくれた。 淹れたてのコーヒーの温りと香りに自然と笑みがこぼれる。 彼女も自身の分のコーヒーを淹れたマグカップとお茶請けだろうクッキーをもってテーブルについた。 勧められるままにクッキーを口に運ぶ。おいしいが、何処かで覚えがあるような気がして、彼女に目で問いかける。 彼女が苦笑して、春香が宿代だと言って置いていったと答えた。 そんなこと気にしなくていいのにね、などと彼女は言っているがいつも春香が事務所で配るものより手が込んでいる気がするのは私の勘繰り過ぎだろうか。 そういえばこのカップも春香が買ってきてくれたのよ、と彼女が言う。 カップ?と手元のコーヒーがまだ3分ほど残っているカップに目を落とす。 シンプルだがセンスのいいデザインは彼女の好みそうな物だ。色は私が持っているのがピンク、彼女が水色で色違いのペアなのだろう。 なんでも春香が彼女のもともと持っていたものを割ってしまいお詫びに買ってきたらしい。 そこで自分の分まで買って置いて行くのはもう詫びではないと思うが、彼女がきにしないならいいのだろう、多分。 なんとなく釈然としないままクッキーを咀嚼する。どんな意図で作られようとクッキーに罪はない、おいしい。 お腹すいてたの?と彼女が微笑いかけてきた。 え、と思うが気づけば彼女が出してきたクッキーの半分ほどを平らげていた。 少々小腹が減っていたと、そう言えば良いだけのはずが妙に恥ずかしくてわたわたと何故かうまく回らない舌で言い訳を並べ立てる。 別にクッキーは逃げないし欲しければまだあるから落ち着きなさい、食べかすまでつけて、と彼女が私の口元に手をやり ひょいと、ぱくりと、た べ て … …っっっ!!!!! 顔が熱い、赤くなっているのが私自身完全に自覚できる。 なのに彼女はそんなに照れなくてもいいじゃない、と笑っている。 彼女の笑顔を直視できなくて、少し残っていたコーヒーを無理に飲み干す。 まったく可愛いわね、と彼女がわらう。 ゴホッ、むせた。 可愛い、誰が、私?コフッ、ゴホッ。 大丈夫?と彼女がハンカチを差し出してくる。 礼を言って受け取り口元を拭う。 ハンカチを洗って返そうとしたが、わざわざ持って帰ったらその間に染みが取れなくなる、と言われてしまった。 それよりも襟にコーヒーこぼれてる、洗面所は向こうよ、と。 ついでにハンカチを水に浸けておいて、と頼まれると抵抗の余地もない。 全く彼女は可愛いらしく、知的で、聡明なくせに、鈍感だ。 洗面所の鏡の前で襟元にこぼれたコーヒーに少しだけ水をつけて拭きとる。何度か繰り返すと染みはほとんど目立たなくなった。 これなら家に帰ってから洗濯機に放り込むだけで十分に元の白さを取り戻してくれるだろう。 洗面台に軽く水を張って借りたハンカチを浸しておく。 さて戻ろうかという時にふと、洗面台に歯ブラシが置かれていることに気付く。 いや洗面台に歯ブラシがあることは不自然ではないが、軽く片手の指に余る本数あるのは不自然だと思う。 黄色い電気ネズミや青い不思議タヌキの歯ブラシを彼女が使う様は想像できない。 これも誰かの私物なのだろう。 彼女のもとに戻って尋ねてみると、泊まりに来る同僚たちが置いて行ったらしい。 無論歯ブラシ以外にも私物は溢れており、今では彼女のものより同僚の物のほうが多いかもしれないのだとか。 私だけの時よりずいぶん賑やかになった、と彼女は笑っている。 笑ってる場合か?と思うのは私だけなんだろうか。 静かに懊悩してると彼女によばれた。 窓からのぞく空はいつの間にやら晴れ渡り、七色の橋がかかっていた。 青空と虹を背景に笑う彼女に私はつい、彼女が笑っているなら、まぁ、なんでもいいかと思ってしまった。 まずは彼女を散歩に誘おう。そして次回は音楽プレーヤーでも持ち込もう。 この場所に、彼女の近くに私の居場所を主張するために。 「ねぇ、せっかく晴れたんだし少し歩かない?律子」 ・・・・・end