しがない事務員である私に突然の出来事が起こったのは、都内にしては冷え込みが厳しい冬のある日のことでした。  日々、それはもう手に余るほどののきらびやかな想像に身を浸している私にさえ、それは決して予想できたことではなく、面食らってしまったのですが。  いつもの事務所。  春香ちゃんの持ってきたお菓子の甘い香りが漂い、千早ちゃんのもってきたCDの音色がどこからともなく聞こえてくる空間。  夜遅くなり、アイドルの皆も帰り始めた頃でした。  今のところ我が765プロでいちばんの出世頭、竜宮小町の四人組が帰ってきました。  まずは仕事の後でも元気が有り余っている亜美ちゃんが飛び込んできて、 「ただいまーピヨちゃん! サボってないー?」 「うっ、亜美ちゃんたら手厳しいわ~」 そんな軽いジャブを飛ばしてきます。イヒヒと笑った口元には、似合いの色のルージュがうっすらと残っていました。今日はそういえば雑誌の撮影でしたね。  その後に続いて伊織ちゃんが疲れた顔をしながら髪をかきあげ歩いてきて、亜美ちゃんをたしなめます。 「こら亜美、小鳥だってたまにはちゃんとするのよ」  前言撤回です。たしなめるようで傷を拡げてきました。さすが伊織ちゃんです。 「ね? 小鳥」 「うう、伊織ちゃんたらひどいわ」 「ん…… ちょっと言い過ぎたかも。悪かったわよ」 「嘘だよピヨちゃーん!」 「うふふ」  大の大人がちょっと嘘泣きをするだけですぐ謝ってくれるあたり、まだ二人ともかわいいですね。そりゃ、中学生ですもの。  もちろんもうちょっと年を重ねるとそうはいきません。ほら、ようやく入ってきた二人みたいに。  半開きのドアを少し押しやって入ってきたのは、竜宮小町の仕掛人、律子さん。  何やら最後尾のあずささんとにこやかに会話しているようで、こちらの騒ぎに気づいた律子さんがいつものスパルタ顔になりました。 「こーら、小鳥さんの邪魔しない!」 「律っちゃんの鬼軍曹ー!」  パタパタとソファの方へ駆けていく亜美ちゃんと、それを見てやれやれと歩いてついてゆく伊織ちゃん。  微笑ましい二人組を見送ると、律子さんがため息をつきました。  アイドルたちはもちろんですが、プロデューサーである律子さんの疲労は想像にかたくありません。  新人プロデューサーには一人のアイドルのプロデュースですらままならないこともあると聞きます。  それがいきなりトリオユニットを手がける仕事となると、たとえアイドルの経験のある律子さんだって容易でないでしょう。  いくらスケジュール管理を私と共同で行っているからといって、十代の肩にはあまる仕事に思えました。  そういった思いもすべて込めて、私はただ律子さんに、 「……今日もお疲れさまです」 「ああ。どうも。小鳥さんこそお疲れさまです」 「あずささんも疲れたでしょう? お茶淹れますね」 「ありがとうございますー」  あずささんはというと、竜宮小町の影の功労者といいますか、アイドル活動としてはリーダーは伊織ちゃんなのですが、それ以外の場面、とくに律子さんなどを支えたりしているのはこの人なのです。  彼女はさして疲れた様子などはありませんでしたが、本人も自覚しない疲労というものも確かにありますので、事務所で一度ゆっくりしてもらおうと思いました。  そんなことを考えていたのですが、どうやら杞憂だったようです。 「小鳥さん、事務所、まだ開けてもらってて大丈夫ですか? このあと少しだけミーティングしておきたくて」 「あっ、大丈夫ですよ。私もまだ予算関係の書類がまとまってなくて」 「あれ? それって今日の昼に上げる予定じゃ」 「気のせいです」 「あらあら」 「……ともかく、よろしくお願いしますね?」 「はいぃ……」  だって同人誌の原稿が今日までだったんですもの。なんてことは口が裂けても言えませんね。  さーて、ちゃんと座んなさーい、話し合いするわよー! と掛け声をかけつつ律子さんがテーブルの方へ去ってゆき、私のデスクの周りに残されたのは私とあずささんだけになりました。  あずささんはいつも通り曖昧に微笑んだまま立っていましたが、私と二人きりになったことに気づき(うーん、ワンテンポ遅い)、なにやら考え事をしたかと思うと、きゅっと何かを決意したような深刻な表情をしました。  一瞬時間が止まります。  私も、その珍しい空気に気圧されてほんの少し居住まいを正してしまいました。  そして、私の予想だにしない一言をこっそりと私に耳打ちしてきたのです。 ―――今夜、どこかお酒の飲めるところへつれていってくれませんか? 「……ビックリしましたよ。まさかあんなことを言うために真剣になるだなんて」 「うう、ごめんなさい~……」  事務所の鍵を閉めながら、私は軽く笑ってしまいました。  まさか、滅多にお酒を飲まないあずささんが、飲みにいきたいと私に言ってくるだなんて。  後で話しますが、ちょっとした事情あって、最近あずささんについてちょっとした注意を払っているので、ついに何か起こったかと身構えてしまったのでした。  当のあずささんはというと、いつもは元気に飛び出す一房の髪の毛がしゅんと垂れていて、例えるならば叱られた大型犬といった様子でした。決して叱った覚えなどないのですけどね。  ……今回の話は、むしろ嬉しいくらいでした。  この仕事をしていて、接するのはアイドルたち、社長、多くのプロデューサー、コンポーザー、等々、同年代の女の子とお酒を飲む機会だなんて滅多にありませんから。  それに―――  いいえ、やめておきましょう。 「小鳥さん、お忙しいようでしたが、大丈夫ですか?」  あずささんは鍵を鞄にしまい込む私を覗き込んできて、その様はまるで許しを乞う子供のようだったので、ついに私はたまらなくなり、 「あずささん、大丈夫ですから。私だって嬉しかったんですからね! こんなお誘い珍しいんですから。だから、そんな風に気にしないでください」 勢いよくまくしたててしまいました。だって嬉しくなかったら、仕事をあんな超特急で終わらせたりしませんからね。  あずささんは私の剣幕に少し驚いたようですが、その真意を汲んでくれたようで、ようやくいつもの笑顔に戻って、 「うふふ、ありがとうございます」  うん、やっぱりアイドルは笑顔でいた方がいいですね。  ただ、そのあとに続いた言葉はちょっといただけませんよ。 「じゃあ、今夜はお任せしちゃいますね~」  ……アイドルにそんな風に言われちゃったら、私、本気になっちゃいますよ?  夜の町を案内しながら、私は「あること」を考えていました。  それは数日前、あずささんのプロデューサー、律子さんから頼まれたこと。 ―――最近、あずささんの様子がおかしい。  どうやら、律子さんがあずささんを観察するには、ここしばらくのところ調子が良くないらしいのです。  食欲はあまりないようで、さらに、仕事中でもそうでなくとも何か物思いに耽ることが多いそう。  私の見立てからすると、話を聞いただけで「某わずらい」にしか思えないのですが、やはりアイドルたるもの、仕事に支障が出るレベルになると困ります。  という訳で、私にも原因究明(どうやら律子さんはただの体調不良だと思っている様子)の要請がきたというわけです。  そのただ中に、このお誘い。  もう、この機会にそれとなく聞き出すしかないわ。そう意気込んでいたのです。  そっとドアを押すと、冷たい風に巻かれてドアベルが乾いた音を転がしました。  折角ですし、私のとっておきのお店に案内したのです。  後ろに続いたあずささんは、店の外観を見ただけで少し緊張していたようですが、私の背中越しに店内を見渡して、はぁと不安げなため息をつきました。  再び私に耳打ちしてきます。 「……小鳥さん、小鳥さん」 「なんでしょう?」 「こんなおしゃれな店に、私入っていいんでしょうか……?」  軽く吹き出してしまいました。  アイドルの仕事帰りの、仮にも勝負服で、メイクもバッチリ。それに地が美人のあずささんにそれを言われてしまったら。  それとなく手をつないで、すっと店内に引き入れると、私はあずささんに笑ってみせました。 「あずささんだから、大丈夫なんですよ?」  あずささんは、頬に手を当てたいつも通りのポーズで首を傾げ、困ったように微笑みました。  カルーアミルクを二つ。  上着を脱ぎながら窓際の席につくと、まず私はそう注文しました。  あずささんもゆっくりとコートを脱ぎつつ、少し目を丸くしました。 「よくご存知ですねぇ、お酒の名前なんて」 「ああ、あずささん、あまり外で飲みませんものね」 「……ごめんなさい、注文もお任せしちゃっていいですか?」 「もちろんですとも。最初に甘いものを頼んじゃったんですけど、あずささん、どんなのが好きですか?」 「ええと、甘いのも好きですけど、ちょっと苦いの…… 例えば、グレープフルーツが入っているのとか、ありますか?」 「分かりました。次はそれを頼みましょうね」 「はい~」  あずささんのとろけるような笑顔を久しぶりに見た気がして、私は何か嬉しいような、切ないような、どうしようもない気分になっていたことをここに正直に白状します。  舌が抜けそうなほど甘いお酒を二人で並んでゆっくりと飲みながら、私たちは色んな話をしました。  私生活のこと。実家のこと。最近上手くいった料理のこと。よく眠れるように気をつけていること。  その一つ一つを、あずささんのペースでのんびりと静かに語っていると、弱いお酒でもなんだか段々回ってくるような気持ちになってきます。  やはりあずささんは、言葉の終わりに曖昧に語尾を濁したかと思うと、軽く息を吐いて遠くを見つめることがありました。  そうして、二杯目のスプモーニを頼んだ頃、今の仕事の話になりました。 「伊織ちゃんは本当にしっかりしてるんですよ~」  何故だか誇らしげにそう話したかと思えば、 「亜美ちゃんはいつでも元気なので、私も元気になっちゃいます~」 うんうん、と自分に頷きながら熱弁し、 「律子さんは…… 最近頑張りすぎな気がして」 そこまできたところで、表情にすっと陰りが生じました。  つ、とあずささんの指がグラスをなぞります。  その指に少し見とれてから、私はゆっくりと切り出しました。 「心配、なんですね?」 「……」  あずささんが言葉を探っているように感じたので、私は少しだけほろ苦い味のお酒を口に含んで、待ちました。  もしかしたら。  そうかもしれない。 (仮にそうだとして、私はどんな顔をすればいいのかしら。それで、何て言ったら)  胸の奥に広がった味は、きっと私の本心。  窓際から冷気がじわじわと流れてきて、鼻先が少しだけかじかみます。  遠くで車が過ぎる音がします。  あずささんは、言葉を見つけられずにいましたが、ついにポツリとこれだけ口にしました。 「……もっと、頑張らなきゃいけませんね、私」  その頬はほんのりと赤くなって、確かに酔いが訪れていることを告げていましたが、言葉に迷いはないようでした。  あずささんの寂しそうな笑顔にいささか戸惑って、私は、当たり障りのない答えだけを返しました。 「……ええ。でも、皆で頑張るものじゃないでしょうか」  ですが、やはりそれは的外れだったようです。 「―――支えてあげたい、と思うことって、変でしょうか?」  その言葉を聞いて、面食らってあずささんを覗き込むと、彼女は軽く唇を噛んでうつむいていました。  誰を、というのはもう分かっています。  間違いなく。  それは。 「ごめんなさい。どう言ったらいいか……分からなくて」  あずささんが一層うつむくと、やわらかな弓なりのフォルムのサイドの髪がかかって、その顔を隠してしまいました。  店内にかかっていたはずの微かな音楽が遠くなってゆきます。  私はというと、あずささんの方に向き直ったまま、どうしたらいいか考えあぐねていました。  情けない限りですが、迷子になったあずささんが言葉を見つけないうちは、どうしようもないというのが現状です。  助けの手を差し伸べようにも、相手が手を伸ばしてくれなければ助け出せない。  それが今の私です。  ……もしかしたら、その役は私じゃないのかもしれません。  それこそ――― 「どうしたらいいんでしょう、私……」  か細い声と共に、はらりとなにか輝くものがカウンターに落ちました。 「このままじゃ、律子さんのお邪魔にしかなりません……」  それが何か確かめる前に、私はあずささんの肩を抱き寄せていました。 「……そんなこと、したくないんです。でも……」 「……ええ、分かりました。分かっていますよ。あずささん」  きれいな黒髪の合間から見えた泣き顔はやっぱりきれいで、場違いなことですが、この人はアイドルなんだなぁなどと思ってしまいました。 「……私、わたしは」 「大丈夫。言わなくたって分かってます」  そう言って遮ったのは、もちろんあずささんのためを思ってですが、半分は万が一の(たとえばスキャンダルなどの)危険を思ってのことです。  打算的な人間になってしまったことを恨む瞬間です。 「……落ち着いたら、もう帰りましょう」    あずささんが静かに泣いて、それが収まった頃、私たちはそっと店を後にしました。  明確な言葉にしなくとも、もうあずささんの不調の理由なんて分かっていました。  ただ、それをはっきりと確認してしてしまうと、あずささんも、図々しいですが私も、なにか薄氷のように繊細なものを壊してしまうように感じていたのです。  帰り道の道中でも、私たちは口をつぐんだまま、色々な思いを胸にただただ歩きました。  そして、今日はありがとうございました、と変装のマスク越しに言ってお辞儀をし、自分の住むマンションに入っていく彼女を見送ったのです。  そのマスクでも隠せない、赤くなった目元を思いながら、私は立ち尽くしてしまいました。  とある階のとある窓が、何かから隠れるように密かに明かりを灯すのを見届けて、私は祈らずにはいられませんでした。 ―――どうか、いいように。彼女が、幸せであるように。  私の帰路について、ひいてはその後彼女が(あるいは、彼女「たち」が)どうなったのかは、ここで私が語ることではないでしょう。